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■ T.P.O師★団/解散

 1981年3月、北村 想は主宰するT.P.O師★団('72年発足) の最終公演として、名古屋七ツ寺共同スタジオにて『最後の淋しい猫』を上演。藤田は、以前名古屋の小劇場シアター36で一緒だった女優の火田詮子に誘われて音響スタッフとして参加。出演は、赤染歌丸/守乱丸/矢野健太郎ら。

『最後の淋しい猫』北村 想/1981

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■ 彗星'86/発足

 1982年、北村想は彗星'86を旗揚げ。生活の主軸を芝居に置くことを目標とした。その名は、'86年のハレー彗星の接近に因む。5年後に活動終了と定めた期間限定で、七ツ寺共同スタジオを本拠地としてスタートした。
 藤田は音響スタッフとして参加、当時在住の千葉県船橋と名古屋を往き来する。専用電話回線の設置を検討するも高額のため断念。稽古用音源はカセットテープを郵送していた。


七ツ寺共同スタジオ

■『寿歌 II』

 旗揚公演は、1982年4月の『寿歌 II』(七ツ寺共同スタジオ)。3週間の公演中に、キョウコ役の火田詮子が腰痛で降板、急遽代役を務めた佳梯カコが風疹で途中交代、最後は水規あみが登板するという、波乱の幕開けとなった。配役は他に、ゲサクに赤染歌丸、カリオに小林正和、クマが神戸浩と矢野健太郎の日替わりだった。

『寿歌II』/1981
左より 神戸 浩・小林正和・火田詮子・赤染歌丸

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ryouki

 栗本慎一郎もそのデカパイぶりを認める知る人ぞ知る名古屋の猟奇娘=渡辺まちこは、自分一人がキョウコ役をできず、心を傷め日本一周バイク旅行に出る。紀行文は雑誌『モーターサイクリスト』に連載された。


■ 小川 瞳来る

 『寿歌 II』の上演中に、スタッフ募集に応じて来たのが、小川美子さん。小川瞳と命名。'82年6月の『THE猟奇王』(原作=川崎ゆきお)から'85年の
寿歌西へまで、音響スタッフとして在籍。
 現在は、岐阜県多治見市で主婦業を営んでいる。

■ ノノヤママナコ来る

 『THE 猟奇王』の公演時に、スタッフ志望で来たのが、野々山智君、愛知県出身。藤田の知人のマンションにパントマイマーのヨネヤマママコが住んでいた事から、これに引っ掛けてノノヤママナコと命名。8月の『月夜とオルガン』から音響スタッフとして参加。12月の『寿歌』の再演では、テーマ曲を編曲。名前に "コ" がつくところから、女性と間違われることもあった。大学では日本画専攻。

 以来音響一門に "目" に関連する名前を付けるのが慣行となる。

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■ 多難の船出

 この年'82年6月に、彗星'86は突発的一件により本拠地としていた七ツ寺共同スタジオを離れ、稽古場と事務所を名古屋今池に構える。T.P.O師★団以来の主力メンバーであった火田詮子が、8月に退団。
  9月には、名演会館の企画で『ザ・シェルター』を上演(地下ホール)、10月に『踊子』(鈴蘭南座) を上演。この作品は第三舞台制作の宍戸紀子らに早稲田大学の学園祭に呼ばれる。ところが実行委員会から会場の使用許可が下りず、急遽久保則男氏の口利きで大駱駝鑑の豊玉伽藍で上演された。『踊子』を舞踏の本家で上演する結果となった。
 12月には、名演会館(小劇場)で『寿歌』『寿歌 II』の連続上演と、怒濤の一年であった。

 北村想は'84年、本多劇場プロデュース公演『私の青空』の作・演出をする。彗星'86からは、おかち以蔵と神戸浩が出演。

 

● 関連サイト:七ツ寺共同スタジオ

※参考文献 : 『空間の祝杯』 (七ツ寺演劇情報センター 1998)


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