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 初演は1998年新国立劇場PITで、栗山民也氏の演出によります。初演を観て、その重厚さに圧倒された覚えがあります。

 JIS企画は、作・演出の竹内銃一郎と俳優の佐野史郎のユニットです。今回のスタッフは、美術=島次郎、照明=吉倉栄一、衣裳=加藤寿子、舞台監督=青木義博です。


 佐野史郎・大森 博・谷川昭一朗・中川安奈・岡本健一
 撮影=吉川信之/2002

■ 竹内戯曲の特質

 氏の戯曲には『あの大鴉、さえも』『月ノ光』など、現実と虚構がない交ぜになり、認識への確信を問うという仕掛けのものが多い。一例を挙げると、『バラバラ百頭女事件・迷宮』(1987) では、幾度も通話していた電話機のコードが、後程に繋がってない事が露呈されるという具合である。この瞬間、観客は眩暈に似た感覚を生起させられる。

■ 舞台設定

 これらの作品と比べると、『今宵かぎりは…』は単純な構造だ。俳優は一人一役で、時の流れも一方向、空間に不条理は無く、舞台設定も具体的である。1928年パリの異邦人達。佐伯祐三がモデルの人物が借りているアパート。そこに出入りする画家・詩人・音楽家たち。金子光晴藤田嗣治らがモデルになっている。
 しかし一筋縄ではいかないのが、竹内戯曲である。

smoran『モランの寺』佐伯祐三/1928

■ 音楽構成

 初演 (音楽=久米大作) はバイオリンとアコーディオンの生演奏であったが、今回は全編既存の曲で構成した。演出家に「何か注文はありますか?」と問うと、フランスの音楽を使ってほしいとの返答、合点だい。クラシック・映画音楽・シャンソン・現代音楽など新旧を聞いた。結果的には、仏・露・日・英・スペインの五色丼状態となってしまい、三色旗の色数を超過した。

『今宵かぎりは…』 岡本健一・七瀬なつみ 撮影=谷古宇正彦/1998

 副題に「1928超巴里丼主義宣言の夜」とある。これが「シュルレアリスム宣言」(1924)のもじりである事は言うまでもない。巴里丼は舞台で食される国籍不明の混ぜ料理で、情況を表徴する大事な品目である。

■ 詩/コクトー/天使

 暗転では、音楽にコクトー自演の詩の朗読を重ねた。フランスの雰囲気を少しでも補強しようという目論見である。『天使ウルトビーズ』(1925) ほかを選んだ。選択の基準は音楽との相性であるが、"天使" という言葉は、台本にもある。どうでもいい点だが、プランの中の遊びである。
 演出家の所望はブルトンであったが、入手できず見送った。藤田とコクトーは交流があったようだし、これでよし。フランスの音楽との馴染みがよく、韻律が心地よい。

ジャン・コクトー 撮影=Germaine Krull/1925 

cocteau

■ 終幕

 幕切れの台詞をどうするかが、作家にとって重要であるのと同様、幕切れの音をどうするかは、大切なところだ。「終わり良いければ全てよし」という訳にはいかないが、「終わり良ければ可成りよし」である。終幕、誰も居なくなった部屋のカーテンが開くと地球儀が回っている。「世界は揺れている」というこの舞台の根底にある世界観の表出である。街の喧騒を表す打上花火の音に続いて、映画『巴里祭』(1932)の懐かしい主題歌が聞こえてくるという展開を考えた。花火の音は若き芸術家たちのさらなる航海への号砲でもある。


 パリ マドレーヌ寺院前/1930

■ シャンソン/タイエブ

 「どうですか?」と通し稽古後に演出家に聞くと、最後が物足らないと言う。やはりそうか。現代的・前衛的な方がよいとの意見。辿り着いたのはタイエブというチュニジア生まれの歌手であった。60年代フレンチポップスの中でもデキシーランド風の編曲の異色の曲である。
 いきなり劇場で掛けたら、舞台監督が地球儀の裏で痙攣していた。歌詞の中に、何とジイドヴェルレーヌランボーと詩人の名の続く一節があった。編集してこの箇所を使ったのは言うまでもない。
ジャクリーヌ・タイエブ MADF1004

 丼状態の音楽が今一つ "純粋さに欠ける" と気になっていたが、この曲の動勢と倦怠を併せ持つ新鮮な響きが、それを消し飛ばしてくれた。芝居全体の軽妙な演出にも整合した。リス・ゴーティの唄う『巴里祭』は客出しに転用した。
 世界は揺れていた。


(悲劇喜劇 2002年12月号より/特集=バックステージの目・2)