「もはや戦後ではない」と言われて久しい。

 戦争映画や戦争漫画という言葉はあるが、戦争演劇という言葉は聞かない。戦争が絡んでいても芝居の顔つきは様々である。

 自分が関わったもので、戦争が絡む演劇というと、『寿歌』(ほぎうた)、『その鉄塔に男たちはいるという』(以下「鉄塔」と記す)、『殺人狂時代』などが思い浮かぶ。これらの作品の主題や作風はまちまちだが、戦争の現れ方はそれぞれの書かれた時代を反映している。戦争との時間の関係でいうと、順番に戦後・戦中・戦前となる。

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『続殺人狂時代』 本多劇場/2004


 『寿歌』は北村想の代表作で1979年初演。『寿歌 II』(1982)、『寿歌西へ』(1985)とシリーズ化された。『鉄塔』は1998年初演、土田英生の第6回OMS戯曲賞受賞作。『殺人狂時代』は作=鐘下辰男、演出=流山児祥で、2002年初演、2004年に続編が上演された。私はこれらの作品の初演あるいは再演の音響プランを担当した。

 それぞれの作品における武器の扱いを比べると、戦争との関係・距離感の違いが分かる。『寿歌』では、第三者の撃ったミサイルが空を飛ぶ。『鉄塔』では、小銃を携えた兵士がやって来る。そして『殺人狂時代』では、傭兵志願者らが武器を使う。書かれた時代が下がるに連れて、武器は遠い存在から近い存在となり、登場人物との主客が変容する。


■ 『寿歌』と『寿歌 II』

 北村想とは同世代なので、時代感覚には共通のものがある。60年代から70年代の負の二大因子は、公害と核戦争だった。当時は人類滅亡、世界の終焉の恐怖が意識の底流にあった。知人の中には北半球の壊滅を予期して、南半球への移住を真剣に考える者もあった。事ある毎にシカゴ大学の核の時計の針が進むという時代だった。大学闘争の挫折を経て、「明るい虚無感」という作者の言葉と共に、『寿歌』の終末感は醸成された。

 舞台は、核戦争後の関西。旅芸人の一座の生き残りが瓦礫の原で、リヤカーを引いている。時折遠方で残りのミサイルが爆発する。原色に光るこれらを花火に見立てる感覚が鮮やかだ。キリストを連想させるヤスオ (ヤソ=耶蘇) と名乗る人物との遭遇と別離の後、放射能の灰の混じる降雪の中、リヤカーはモヘンジョ・ダロ (死者の丘)を目指す。
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モヘンジョ・ダロ
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『寿歌』 矢野健太郎 CKホール/1989 

 題名の「寿歌」は、日野皓正の1976年の同名のLPレコードから得たもので、祝って詠む歌の意。『寿歌 II』ではこのアルバムから一曲使った。一部祝詞(のりと)を連想させる異色のジャズ・アルバムである。ザ・ピーナッツの唄う『ウナ・セラ・ディ東京』の言い様のない気怠さと、喧しく鳴く蝉の声が空虚感を引き立てた。他にリゲティの合唱曲など、歌謡曲から現代音楽まで、多種多様の音楽や効果音を使った。見えない蛍は、工夫して風鈴の音で表した。

 登場人物が旅芸人だけに、演芸の場面がある。『寿歌II』には、天岩戸伝説よろしく、門を開くために門前で芸を繰り出すところがある。芸能が絡む事で『寿歌』の世界は奥深いものとなっている。

※参考文献:安住恭子著『青空と迷宮―戯曲の中の北村想

■『その鉄塔に男たちはいるという』

 ある共同体が外部と対立する状況下、内部に巻き起こる葛藤と矛盾を、軽妙な会話のやりとりで展開する。土田作品の多くに見られる構成と作風が踏襲されている。この共同体が彼らの劇団MONOと二重写しに見えて、集団論としても受け取れる巧みさが見事である。主宰者の苦悩が偲ばれる。

 戦時の海外、日本の軍隊の慰問に内地から来たお笑い芸人の一座。座長を捨てて遁走した座員達が、森の中の鉄塔の中階で逃亡生活を送っている。時折機関銃の音が聞こえるが、一週間程で戦争は終わるという噂。そこへやって来た脱走兵と共に、帰国後の舞台復帰を想定して、ネタ作りに励む。しかし発見され、武装した部隊に包囲される。そこには座長もいる。

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『その鉄塔に男たちはいるという』 ザ・ポケット/2001


 夜床に就いているところから芝居は始まる。幕開きに照明弾を撃ち上げてはどうかと提案した。その方が、奥村泰彦の美術プランの特性を活かせると思ったからだ。彼の美術は透かしの構造が多い。この作品は鉄塔と植物の組合せなので尚の事だが、元々壁などを隙間の空いた造りにしたものが多い。照明や音響にとっては好都合である。

 照明弾は発光しながら落下傘でゆっくり落ちる。闇の中から舞台全景が照らし出される趣向だ。光源を動かせばもっと面白い効果が得られただろう。照明弾の音は花火の音を元に加工混合して作った。
 森から聞こえる動物の鳴き声は、東南アジアを想定して国内にいない種類にした。中階を強調するために、低位置から発した。中階に居ることは、登場人物達の逡巡と不安定な立場を象徴していた。

 幕切れは、バリー・マクガイアの唄う『明日なき世界』(原題は『Eve of Destruction』)。これに砲声を混ぜ、カーテンコールへと繋いだ。武力とコントが対峙するという着想が奥深い。

■ 劇場から戦場へ

 戦争映画と呼べないかも知れないが、『未来世紀ブラジル』を撮ったテリー・ギリアムの作品に『バロン』がある。街の劇場では戦時下『ほら吹き男爵の冒険』が上演されているが、砲火で全壊寸前。そこに男爵本人が現れる。最後には男爵の夢想がトルコ軍を打ち負かす。想像力の壮大さを感じる作品である。

 現実に立ち向う想像力が演劇においても不可欠なのは言うまでもない。日常生活の断片を舞台化する矮小な演劇には魅力を感じない。遠大な演劇の想像力が世界に広がらんことを願う。


(悲劇喜劇 2004年11月号より/特集=現代劇の戦争と平和)

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