バックステージというと思い出す芝居がある。『化粧』『ドレッサー』ではない。それは、遊気舎プロデュース公演『びよ〜ん(Beyond)』(作・演出=後藤ひろひと) である。

 私はこの芝居を1998年9月に本多劇場で観た。劇中で、案内役が、舞台袖から楽屋へと分け入るライヴカメラの映像を見せながら、舞台裏の有り様を実況で解説する場面がある。ここからは、その映像である。楽屋から舞台へ通じる狭い通路の脇に、数人が無愛想な顔をして、内向きに一列に並んでいる。これは、これから舞台に登場して多数の観客の視線に曝される俳優達の気持ちを馴らすために、雇われて配置されている人達なのだと言う。さらに、カメラの向きが変わると、机に向かって観客の書いたアンケートを整理している女の係員の姿がある。何故かビキニ姿だ。ここでは、俳優に読ませてはまずい記述のあるものを分別し、その目に触れないように始末しているのだと言う。

Beyondデザイン=黒田武志/ 写真=中川誠一

 勿論、これはフィクションで、映像に登場する人物は関係者なのだが、案内役の飄々とした風貌と巧みな話術も相まって、私はこのシーンを大笑いで観た。舞台裏という観客に不可視の領域を、巧みに演劇化した演出の着眼と手際の良さに感心した。俳優の微妙な心理を説明するのに、舞台裏の暗がりと、簡素な照明に手振れする映像は、妙に説得力があった。

bridge
■ バックステージ

 バックステージという言葉を耳にするようになったのは、近年である。舞台裏のことである。暗そうだ、晴れやかな感じがしない。いや事実暗い。演劇という表現行為の中で観客に見せないのが舞台裏である。本番中、照明は当たらない。真っ暗では不都合なので、足元を照らす小電球が申し訳なさそうに灯っている。出番前の俳優達の舞台裏での心中がいかなるものか、その本当のところを私は知らない。

 撮影=テクニカル・アート

 舞台裏で働く人々は裏方と呼ばれる。私もその一員だ。舞台・照明・音響・衣裳・メイク・楽屋係などである。目立たないように黒い服を着ている事が多い。客の目に触れてはいけない存在なのである。だが時として露出してしまう事がある。舞台転換時の手違いで、照明が早く点いてしまった時などである。このような場合の当事者達の対応は瞬時に行われる。最寄りの舞台袖に駆け込むのである。実に素早い。別に訓練している訳ではない。不意に光に照らされた、ゴキブリの如くである。悲しい習性である。

 言うまでもなく、数時間の演劇の作品を作り上げるためには、準備から稽古まで、何か月もの時間が費やされる。ここでの作業の質と量が、作品の質を左右する。演劇は、広義のバックステージで作られるという言い方も出来るだろう。観客は舞台を観ながら、実は背後のバックステージを観ているのかも知れない。バックステージが閉じていては、作品の世界も閉塞してしまう。バックステージが広く開けていれば、作品もその深みを増す。

撮影=テクニカル・アート 

■ 空想する力

 以前、名古屋市が劇場の新設を計画中に、意見を求められた北村想は、寝泊まりと炊飯のできる劇場を作るべきだと言った。これは不採用となったが、民間にはそういう劇場もある。名古屋でも、七ツ寺共同スタジオ・鈴蘭南座・大須演芸場などは、そうである。実際このような劇場で作られる演劇の肌触りは、一味違ったものになる。こういう劇場では、バックステージ・パスと呼ばれる、楽屋口の通行証も無しである。何週間も泊まり込みで劇場で過ごした体験は、忘れられない。

chikusa名古屋市千種文化小劇場

 演劇の扉を開ける鍵は幾つもあるだろうが、その一つは<空想する力>である。演劇は空想のバックステージを広げた方がよい。『びよ〜ん』を再演する機会があったら、あのライヴカメラが、楽屋口から街の中へ飛び出して行ってくれたら、猶の事よい。『幕末太陽傳』のフランキー堺よろしく、東京の街を駆け抜けるのだ。空想のバックステージは無辺である。

 それにしても、芝居は舞台裏からではなく、客席から観た方がずっといいに決まっている。
後藤さんも賛成してくれる‥‥かな?
 ところで、前出の除外さけたアンケート用紙だが、役者の心を癒すために、切り絵にされているそうだ。

※参考文献 「裏方用語事典」金羊社 1995

(悲劇喜劇 2002年6月号より/特集=バックステージの目)