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「フォークは忘れようと唄い/ロックは忘れろと唄い/歌謡曲は忘れられないと唄う」と言ったのは、早川義夫だった。

 演劇は社会を写す鏡であると言われる。
演劇の音は何をどう奏でるのか。演劇と音響の関係を考える時、
「歌は世に連れ世は歌に連れ」という言葉を思い出す。


 早川義夫 『ラブゼネレーション』
 文庫版 シンコーミュージック/1992
 表紙絵=林 静一

■ 演劇における音響

 劇中の音楽や効果音の使い方に、決まり事はない。戯曲・俳優・装置・照明などとの相関の中で決められる。音響プランを作るのは、演出的な行為であるというのが適切だろう。絵画に例えれば、何を描くのも自由だが、額縁の形と画布の大きさとは、予め定められているというのに近い。
 舞台の上の音は、大きく四つに分けることができる。
(1) 俳優の発する声や物音
(2) 歌や踊りに付随する音楽
(3) 環境・状況の説明や、物語の進行のための効果音 (例 : 波/電話/銃声/近所のピアノ)
(4) 台詞に掛かる音楽や転換時の音楽
ここでは、取り敢えず、生音(なまおと)と再生音とを、区別しない。

 音響を表現行為として捉えた場合、重要なのは(4) である。(3) が、音源を想定しているのに比べ、(4)は、音源を特定していない。(4)によって表されるのは、視覚的なイメージや、抽象的な観念などである。現代美術のひそみに倣えば、<耳に聞こえないものを聴覚化する>ことが、ここでの音響の役割である。この際、一次的なイメージから想起される音は、避けた方が賢明だ。“正月”だから『春の海』というような単純な構図は、想像力を喚起する力を欠く。そこに、遊び心や批評精神があれば別だが。

 演劇は、俳優と観客さえあれば成り立つ。そこに、音が介入する絶対の必要性はない。音響家の使命は、音を作品の中にいかに必然化させるかである。私は、一つの音は観客に対して、二つ以上の何かを、提示するのがよいと思っている。
 以下は具体例である。

momentTONERICO:INC.『MEMENT』

■『寿歌』(ほぎうた)

 『寿歌』(作=北村想) には、ミサイルと蛍が登場する。景二は「火垂」(ほたる)という題がついている。音を考えた場合、ミサイルはいい。困ったのは、蛍である。蛍は、作品の中で、<空蝉と幻>を媒介する重要な役どころである。蛍は鳴かない。これを何とか、音響的に表現できないかと考えた。行き当たったのは、"風鈴" であった。稽古で使ってみると、淡い蛍の光が点滅する感じと、弱く鳴る風鈴の音色は適合した。暗い中で響くそれには、幻の如く儚い美感があった。後段の蛍が増殖する件には、金属的な打楽器の音を用いた。粒子感のある音で、"風鈴" と連携の取れた音の構成ができた。

peanuts
 この作品は、初演(1979) から20年を経た現在も、作者自身の演出で上演される機会がある。この間、音響プランも幾多の変転を重ねた。ト書きに指定されている、ザ・ピーナッツ『ウナセラディ東京』は降板したが、この風鈴の音は健在である。

『ウナセラディ東京』1964
 唄=ザ・ピーナッツ
 作詩=岩谷時子/作曲=宮川 泰

■『月の岬』

 20世紀最後のプランは、大野城まどかぴあ小ホールの、『月の岬』(作=松田正隆、演出=竹内銃一郎) であった。近年、平田オリザ氏の演出で上演されたので、そちらをご覧になった方もあるだろう。長崎弁/蝉/仏壇/食卓/電話など、松田作品にしばしば現れる要素は、全て登場する。長崎の小島に暮らす一家が、舞台となっている。

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写真提供=大野城まどかぴあ
 ト書きに、「一匹の蝉が鳴く」という箇所がある。演出家も私も「一匹じゃのうしてもよかたい」と思った。長崎にミンミン蝉はいないと、以前松田氏に教わった。ここは作家に敬意を表し、特別に録音した1匹で鳴くアブラ蝉の音を流した。誰か、気づいてくれただろうか。
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 劇中、7曲程音楽を使った。終幕は、沖縄の歌手・平安隆『月』という曲で閉じた。佳曲である。語呂合わせもあったのだが、島唄を使うことで、小空間では希薄になりがちな、島の風土や歴史性といった部分を、補完できると考えたからだ。美術の奥村泰彦も、居間の畳に琉球畳を指定してきた。やはり<南方>というイメージがあったそうである。当初、他に2曲の八重山民謡を予定していた。だが、演出家から違和感があるとの指摘を受け、沖縄音階の器楽曲に変更した。
 かつて、自作『ひまわり』(1988) に対して発せられた、「これは一体どこの国の話か?」との問いを、愚問だとして撥ねつけた竹内氏の言としては、少々意外であった (註 :『ひまわり』では、チェーホフの『三人姉妹』から引用した同名の三姉妹が登場し、彼女らは日本語を話し、スキヤキを食す)。私は長崎と沖縄を混同した訳では勿論ない。が、『月』に対しては、観客からも同様の意見があったので、演出家の感覚は的確だったように思う。もし、これが沖縄を舞台にする話だったら、沖縄音楽の使用は、寧ろ躊躇ったかも知れない。また、これが欧米の音楽だったら、すんなり受け入れられたのではないかと思うと、現在の音楽情況を考える上で面白い。

 テーマ曲風に反復して用いたのは、純正調で調律された琴の現代曲『植物文様』(作曲=藤枝守) だ。平均律に慣らされた耳には、純正調の響きは新鮮に映る。この曲は、登場人物達の基調となっている <自己の存在の居心地の悪さ>に、彩りを添えた。その他に、平均律で奏でられた、西洋音楽も使った。

moyou『植物文様』藤枝 守 TZADIK 7025

 こうして、沖縄音階と純正調、そして平均律の三つの音楽が、代わる代わる立ち現われることになった。最後の場面では、「萩の花が咲きましたね」という台詞をきっかけに、前出の『月』の前奏が始まり、一分程経って、最後の台詞を言い終わると、丁度、歌が始まるという趣向である。歌を使ったことは、それが抱える世界性によって、劇の世界を相対化する作用をもたらした。単調さを避け、音が作品の世界に広がりを持たせるように心掛けた。

■ 演劇の音響プランとは

演劇の音響プランにおいて、個々の音は、全体のプランの一環である。場面に合わせて、曲の進行やテンポを編集・調整するので、原曲が丸ごと使われることは稀だ。個々の音曲は素材である。生け花における花のようなものと理解してもらえばよいだろうか。ミックスして使う場合も多い。現場では、音質・方向性・距離感などが調整される。音量・音像などは舞台の進行に合わせて、オペレータの手により、コントロールされる。 演劇の音響は、ただ雰囲気を作ったり、効果的といった効能だけで用いられる訳ではない。音響プランは、選曲という行為を内包するが、それとは別物だという事を、分かって戴ければ幸である。


(悲劇喜劇 2001年4月号より/特集=演劇界の新たな胎動)