らしらじらじお らじお
「玉音放送」について


大東亜戦争終結ノ詔書の一葉
 毎年8月15日が近づくと、終戦の玉音放送をテレビやラジオで聞く機会が増えます。「玉音」とは現人神(あらひとがみ) の肉声です。

 戦後70年を迎えた2015年8月に、宮内庁が原盤の音声ファイル (4分30秒) をウェブサイトで公開しました。従来放送などで聞くことのできた音声 (多くは4分43秒程度) は、占領下の1946年に複製されたものです。かねてから声が低いとの指摘があったようですが、原盤に比べてピッチが5%ほど低いことが判明しました。複製時の速度偏差が原因と思われます。

 音盤の写真も公開され、宮内庁に保管されていたのは、「正」の2枚組と3枚組の計5枚だったことが、はっきりしました (正副・枚数については後述)。公開されたのは2枚組の音声です。

 69年振りに玉音盤が再生されたのは 2014年12月。破損を避けるため、5gという78回転では最軽量の針圧で再生され、KORGの録音機により1ビットのデジタル録音がなされました。
 作業に当たったのは新忠篤氏。日本フォノグラムで音楽制作に携わった後、フィリップス・レコード(蘭) の副社長を経て、現在オーディオ分野で活躍中の方です。


原盤の録音時間は片面約3分、玉音の長さは4分半
時事ドットコムニュース 2015・8より引用


玉音盤「正本、B-2」
ラッカー層の剥離によりアルミ基板が一部露出
レーベルには「日本電気音響株式会社」の印刷文字とロゴマーク
手書きで「B-2 2回目」との記入あり、正本録音班Bの2枚目を意味する
一方録音班Aでは、「第二回 番号2」とあり別人の記入と思われる


玉音盤「正」の収納缶
貼紙に
の記載がある。
A Set of Recording of Imperial Rescript read by Emperor on 15 August,1945.
Central Liaison Office (Political Sect.)=終戦連絡中央事務局 (政治部)
上蓋に浮き彫りで次の文字がある。
OTC (OHIRA TRADING CO.Tokyo)
STANDARD SOUND RECORDS


玉音盤およびデジタル録音の編集個所


昭和天皇/陸軍大元帥の軍装 (1944年元旦)

 天皇の放送を生放送にするか録音放送にするかが閣議で討議され、録音に決したのは1945年8月14日13時台。録音の場所は、皇居内の宮内省内廷庁舎 (表御座所) 2階政務室です。日本放送協会から会長以下幹部3名と録音班5名(技師長:長友俊一) が、隣室の拝謁の間に15時から録音装置を搬入設営して、待たされていました。詔書の文言の決定と清書に手間取っていたのです。天皇は23時25分に御前会議と同じ陸軍大元帥の軍装で入室し、立位で発声されました。

 録音装置は、マイクロホンがマツダ(東芝) A型ベロシティー、録音増幅器2台 (マイクプリアンプと思われる)、円盤録音機は日本電音機製作所 DP-17-K型が2台2組で計4台、試聴用の二連円盤再生機という構成でした。二班で同時録音することにより、万全を期しました。担当者は失敗したら切腹覚悟だったといいます。


政府から6名、日本放送協会から8名、侍従5名が立ち会った。 『放送夜話』日本放送協会 1968より
 録音盤は、直径10インチのセルロース盤 (アセテート盤またはラッカー盤ともいう)。録音時間は片面3分。厚さ1mm程のアルミ基板の両面に、ニトロセルロース系の塗料を0.3mm程の厚さで塗布したものです。音の波形をカッターヘッドで塗料層に刻み込んで音を記録します。カッティングの始まりは内周側。両面に録音可能ですが、使ったのは片面のみでした。

 1枚目が2分を過ぎたら次の録音盤へというふうに、一部重複しながら交互に引き継いでゆく方式です。録音時間は知らされておらず、ぶっつけ本番。一部不明瞭で、天皇自らの仰せもあり2回目が行われました。字句が一部抜けましたが (上文参照) 、終了。時間は4分半で、片方の班は3枚目に着手しましたが、結果的に両班とも2枚に収まりました。2回目の録音盤「正」、1回目が「副」とされました。試聴の後、撤収して部屋を出た時は、日付が変わっていました。「正・副」ともに侍従が受取り、宮内省に一時保管されます。これが功を奏します。

DENON DP-17-B型 円盤録音機
(録音に使われたのは"K型") と
東芝A型ベロシティマイク
 陸軍の青年将校らが宮城の占拠と録音盤の奪取を謀るも失敗。録音帰りの大臣はじめ運転手を含む18名は、一晩拘束監禁されますが解放されます。ことの顛末は下村海南(宏)の『終戦秘史』や半藤一利の『日本のいちばん長い日』に詳述されています。

 玉音盤が内幸町の放送会館に届けられたのは15日の午前10時台でした。2階の第八演奏室から放送されました。再生は、前日溝切りをした2名の内の春名静人技師が担当。1枚目と2枚目の音盤を別々に2台の再生機に乗せます。音の要所には黄色の色鉛筆であらかじめ目印 (輪の形) をつけます。これを手掛かりに、放送の最中に、イヤホンで聞きながら手動で同期を取った上で、2枚目に切替えたそうです。冷や汗ものです。
 放送されたのは「正」の方です。「副」は、不測の事態に備えて放送会館地下の予備放送室、および東部軍司令部のあった第一生命館の地下の臨時放送室でも準備されましたが、出番はありませんでした 。玉音盤はすべて宮内省に引き渡されます。

 天皇自身もこの放送を吹上御所の御文庫附属庫 (地下防空壕)の御休所で聞かれ、泣かれたということです。ラジオはグァムでの戦利品で、皮肉なことに敵米国製のRCA Victor 12X。横幅約25cmの5球スーパーで、国産より高性能でした。

RCA Victor 12X ラジオ受信機

吹上御所 御文庫附属庫 地下壕

 放送は当時最も聴取率の高い正午に始まりました。時報に続き、「只今より重大なる放送があります。全国聴取者の皆様御起立願ひます。」との和田信賢放送員の言葉が続きました。玉音のほか、君が代奏楽(音盤再生)、下村宏情報局総裁の告知、内閣告諭、ポツダム宣言要旨等々、玉音と君が代以外は生放送で、全部で十数項目37分半ありました。

 日本放送協会は放送時に全てを同時録音しましたが、占領軍の手に渡るのを怖れ、翌16日に廃棄してしまいます。ですから玉音と君が代以外の音声で、今日聞かれるのは、"再現"ということになります (その証拠にそれらにはスクラッチノイズがありません)。

 玉音放送に先立ち、予告放送が14日21時と、前出の宮城事件のせいで予定より2時間21分遅れの15日午前7時21分に行われました。この間に阿南惟幾陸軍大臣は自決します。


予告放送の原稿の一部 1945年8月15日午前7時21分放送
赤字2箇所は「ポーズ」(間
の意)

 玉音放送は電波管制による昼間の10kWが、60kWに増力されました。東亜放送の短波を通して、中国占領地、満州、朝鮮、台湾、南方諸地域の出征将兵、在外邦人にも伝えられます。また海外放送により、二十数カ国語に翻訳して送出されました。英訳は米国でも受信され、8月15日付のニューヨーク・タイムズ紙に全文が掲載されました。

 聴取者の多くが、よく聞き取れなかったと回想しています。当時ラジオは防空情報を聞くための必需品で、皆その扱いには慣れていたはずです。原因は放送設備の被災や全国同一周波数など、電波事情による雑音の影響もあったでしょうが、一番は、天皇の御告文(おつげぶみ) の奏上に似た抑揚のある独特の口調の上に、語句が難解だったことだと思われます。多くの一般国民にとって天皇の声を聞くのはこれが初めてでした。


玉音放送を聞く人々 (東京経堂)
台上に真空管ラジオ
ラジオの下がスピーカか
必ずしも全員が起立して聞いたわけではないようだ

下村宏内閣情報局総裁
 詔書の文言は、9日と14日の御前会議での天皇の発言を元に、内閣書記官長の迫水久常が起草しました。これを漢学者が補筆したものを案文とし、閣議で審議されました。ここで紛糾し加筆修整に6時間を要します。御名御璽を得て各大臣が副署し、午後11時に公布されます。

 玉音放送は、国務大臣でもあった下村情報局総裁のかねてからの奏上を受けて、天皇の「国民に呼びかけることがよければ、いつでもマイクの前にも立つ」との発言が契機となりました。当初詔書の内容を口語体で行うつもりでした。ところがここで問題が起きます。冒頭に出てくる、「朕(ちん)」と「爾(なんじ)」がどうしても口語化できないのです。録音の時間も過ぎており、いたしかたなく漢文調の原文のまま読まれました。

 NHKの依頼を受けて音声を分析した日本音響研究所によると、昭和天皇が緊張しているか感情が高ぶっているとみられる部分が、3か所あるそうです。ポツダム宣言の受諾について述べた「@ 共同宣言を受諾する旨通告せしめたり」の一節と、原爆について触れた「A 残虐なる爆弾を使用して」の一節、それに「B 堪え難きを堪え忍び難きを忍び」の一節です。Bは聞き取り難かった中でも多くの人が聞き取れたと語っています。これらはいずれも振動数が増え、声が高くなっていましたが、このうちB の一節は特に高くなっていたほか、「堪え難きを」と「堪え」の間に一間あることから、感情が最も高ぶっていたとみられます。

 「副」の音盤は1975年にNHKに"お貸し下げ"となりました。1枚は愛宕山の放送博物館で、窒素ガスを封入した4℃の恒温ケースに入れて展示されています。「副」は2組計7枚です。「正」の5枚に比べて枚数が多いのは、1回目の録音はさらに慎重を期して、4台同時に録音を開始したためです。これらは劣化 (ラッカー層のひび割れや剥離) のため再生不能とのことです。


『日本のいちばん長い日』(1967)
 玉音放送から1週間後に、太平洋戦争の開戦とともに途絶えていた天気予報が復活し、以後今日まで続いています。

時事ドットコムニュース 2015・8より引用

 

 ■ 参考資料
 『放送夜話』日本放送協会 1968
 『放送五十年史』日本放送協会 1977
 「悲劇喜劇」1985年9月号 早川書房
 『玉音放送』竹山昭子 晩聲社 1989
 『戦争と放送』竹山昭子 社会思想社 1994
 『20世紀放送史』NHK放送文化研究所 NHK出版 2001
 「国産円盤録音機物語」阿部美春
    JASジャーナル 2003−2004 日本オーディオ協会
 『昭和史の天皇 4』読売新聞社編 2012
 「「玉音放送」原盤公開までの流れ」時事ドットコムニュース 2015・8
 「ネットジャーナル「Q」」秋山久

[追記] 玉音放送については、書籍・放送・ネットを含め不正確なものが多く出回っています。
  玉音盤の枚数一つをとってもそうです。「昭和天皇実録・九」ですら誤った記述が見られます。
  本稿は複数の情報源に当たり正確を期し、改訂を重ねました。(2017・11)


(ステージ・サウンド・ジャーナル 2017年9月号より)